くるいたくない人間

「くるいたくない人間」

 

わたしはくるって終ったのでしょうか。この社会には狂人の生きる場所など、場末の酒屋にだってありゃしません。

 すこし教養のありそうな初老の男から若い女まで、みな、輝いた笑顔で(この笑顔は私とは違ってきっと生来のものです)いつも通りの卑下た冗談やら、どこかで聞いたことのある男と女にまつわるジンクスを交換しています。その繰り返されるルーチンを見ているうちに吐き気がして、わたしは彼らのほうがくるっているように見えてきます。しかし、どっちがくるっていようが、たいした問題ではありません。淋しいのはいつだってこちら側なのです。

 わたしはそっと、その店を抜け出しました。

 早稲田通りを穴八幡宮の方に歩きながら、さりとて穴八幡に何か用事が在るわけでもなく、ただもうぶらぶらと歩くだけですから、途中で酒屋に入って、アルコールを浴びて、更に酷い気持ちになります。

 八幡前の交差点の交番のお巡りもこちらを見ているような気がいたします。きっともうすぐわたしは逮捕されるのでしょう。サイレンの音もどこからか聴こえてきます。どこかへ逃げなくてはなりません。どこかへ。ふいに辺りが朱くなり、どうやらこのサイレンは救急車のものだとわかりました。わたしを轢いてくれた男が、とぼとぼ近づいてきて泣きそうな顔をしています。わたしは最期まで、他人を不しあわせにすることしか出来ませんでした。早く捕まえて、牢屋に入れてもらわなくてはなりません。けれども、もう独房に入るのは厭だなと思いました。